日本語教師体験談(フィリピン セブ)

●なぜセブ島?きっかけ、経緯について

私が初めてフィリピンで日本語講師として日本語を教えたのは2017年の8月。
当時は大学二年生でした。大学では、「英語教育」を専攻しており、夏休みを利用してフィリピンのセブ島に短期の語学留学をしたのがきっかけでした。

滞在先の語学学校の様子

留学先の語学学校は、シェアハウス型の語学学校となっており、とても楽しく英語を勉強することができました。

そんなおり、アクティビティの一つとして現地の学校を訪れようということで訪れたのが
「Ramon Duterte Memorial National High school」
でした。

折り紙の授業での一枚

英語の勉強もとても楽しかったのですが、学校に訪れ彼らに出会ったときの衝撃は凄まじいものがありました。
日本の学校とは比べ物にならないほどの劣悪な環境の中に、日本の生徒の何倍もの数の生徒が勉強している学校。
しかし、彼らの顔はとても生き生きしていて、一生懸命に勉強していました。
そして日本人の私達生徒が視察に訪れた際の彼らの興味津々な眼差しはいまでも忘れられません。
私達はそこで、少し生徒達と触れ合い、遊んだ後に校舎に帰りました。

しかし校舎に帰ってからも、私は先ほどあった生徒達との触れ合いが忘れられず、どうしてももう一度会いたいと思ってしまいました。
そして私はその日のよるに、語学学校の校長先生に

「明日から毎日、あの子達に日本語を教えます!」

と言っていました。
そして次の日の朝、私はもう一度同じ現地の公立校に向かい、日本語教師として働かせてくれないか直談判しに行きました!
しかし。フィリピンは意外とセキュリティが固く、そう簡単に外部の人間は入れません。(公立の学校であっても警備がいます)
ですが、前日に私たちが学校を訪れたこと、そして校長先生からも紹介をお願いしたことがきっかけで、その日から帰国までの間、その学校で日本語を教えることになりました。

Ramon Duterte Memorial National High schoolの学校紹介、仕事内容

そしてこちらが僕の教えた公立校です!


この学校、お気づきのかたもいるかもしれませんが、学校名に「Duterete ドゥテルテ」が入っている通り、元フィリピン大統領であるドゥテルテ大統領の名前を冠した公立校で、とても大きく生徒もたくさんいます。
しかし、「フィリピンの公立校」の状況とは日本とは全く違っていて、

・机がない(みんな腕かけは机にしている。)
・上靴がない
・筆記用具を持っていない
・etc

という少し驚き(?)の環境でした。
そんな中、私は日本語教師として、公立校の生徒でも受けられる日本語授業として

・折り紙
・日本語の名前の授業(名前をつけてあげる)
・はないちもんめ

などの授業や遊びを教えました。

もちろん授業は日本語も使いましたが、ほとんどの子は日本語を理解していないので授業の大半は英語を使って教えていました。
僕の拙い英語にも、生徒達は一切笑わず、真剣な眼差しでついてきてくれたことに感動しました。

●現地の言葉は必要か? フィリピンの言語事情について

結論から言って、フィリピンの現地語(タガログ語、セブアノ語)の習得は全く必要ありません。しかし、英語は必要ということになります。
フィリピンでは、公用語として使われている英語やタガログ語(公用語が二つあります)、そしてその地域で使われている特有の言語(セブ島ではセブアノ語)など、3つ以上の言語を話す人がたくさんいます。
しかし、日本語を教えることになる学校などでは基本的に英語を話せれば大丈夫です。
また、ゼロから日本語を覚える人が多いため、英語を覚えないでいくと少し厳しいかもしれません。
英語のレベルとしては、高校までの英語を覚え日常会話ができるレベルだと日本語教師は十分につとまると思います。

●休日の過ごし方

私は日本語講師としてフィリピンにいた時は、小旅行(ボホール島という島)に遊びに行ったり、日本語サークル入っている現地の大学生とレクレーションをしたりしていました。

University of the philippines, Cebu の大学生とジョリビー

フィリピンでは、日本に比べ圧倒的に物価が低いため、舟を使っての小旅行なども安く済むので日本語教師をやっている方にオススメのリフレッシュ方法です!
特にボホール島では、フィリピンならでは透き通った海や船上パーティなどを楽しむことができました。料理も美味しくちょっぴり贅沢をして、また日本語を教えるの頑張ろう!と思えました。

ボホール島での危ない遊び

そして、私は現地の日本語大好きな大学生(University of the philippines Cebu) とも仲良くなり休日も日本語を教えていました!自分でも、たまの休日は休みたくもなるかと思いましたが、やはり日本語を教えるのは面白い!また普段教えている子よりも聞いてくる質問が難しく、いつも教えるのに苦戦をしていました。。。
しかしこれが実は、普段の日本語を教えるときに役立ったりしていたので今となっては良い思い出です!

休日に折り紙をして遊ぶ現地の大学生達との写真

●これから日本語教師を目指す皆様へ

ここまで、長く、稚拙な文章でしたが読んでいただきありがとうございました。
正直、フィリピンに来るまでは日本語教師になりたいと思うどころか、日本語教師の存在すら深く考えたことはありませんでした。
しかし、現地の学校を訪れ、子供達と触れ合い、何もなかった大学生の私にもキラキラと目を輝かせてよってくる彼らを見て何かしてあげたいと思い日本語教師を初めました。

私達日本人が普段気にも留めないような、ちょっとした日本語や日本の文化にも興味を示して、全力で勉強している姿を見れるだけで、十分にやりがいのある仕事だと思います!

当時のこのフィリピン、そして日本語教師との出会いによって私はその後大学を休学し
もう一度フィリピンに戻り、本格的に日本人教師を始めることになりました。

そのときのお話は、またご縁があればさせていただければと思います!

私のnote. https://note.com/yuta_cub_sato

セブ市(英語: Cebu City)は、フィリピンのセブ州の州都である。フィリピン国内で人口が5位(ケソン、マニラ、カローカン、ダバオに次ぐ)の大都市である。メトロ・マニラやメトロ・セブを単一の都市と見なせば国内第2位の大都市となり、狭義のセブ市はメトロ・セブの中心地域となっている。

また、現代の首都であるマニラよりも古い、フィリピン最初期の植民都市でもある。2010年現在の人口は約87万人[1]。バランガイ数は80。

セブ市は国際線・国内線など多数の航空路線の重要なハブであり、フィリピン中部のビサヤ諸島から南部のミンダナオ島に至る地域の商業、交易、産業の中心地である。近年は観光業と家具製造が盛んなほか、コールセンター業務、ソフトウェア制作など情報産業のアウトソーシング先としても活況を呈している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96

 フィリピンにおける日本語教育の歴史の始まりは、1923年にフィリピン大学フィリピン言語学学科で1学期だけ行われた日本語講座であると考えられる。計画的かつ組織的に日本語教育が行われたのは、戦時中に南方諸地域へ派遣された日本語教師によるものが始まりで、フィリピンでは、約150名の教師が日本語教育に従事し、公用語としての日本語教育を軍政の一環として推進した。
 戦後、1964年にフィリピン大学東洋言語・言語学学科に日本語講座が開講されたのに続き、1968年に在フィリピン日本国大使館広報文化センター日本語普及講座(初級、中級及び会話クラス)が開設され、急増する日本語学習者に本格的に対応することとなった。しかしながら、近隣のアジア・オセアニア諸国の日本語学習者が増加するなかで、1970年代から1980年代にかけて、日本語学習者の数はそれほどの伸びを示さなかった。
 1990年代に入り、米国との基地協定の廃止や当時の政権による国語重視の方針が打ち出されると、フィリピノ語の使用が見直された。さらに、教育省による日本語、中国語等の外国語教育の必要性に対する見解にも変化が見られ、また、近年は日系企業の進出やIT関連、看護・介護などの特定職業分野での人材の需要が刺激となって日本語学習者の数は増えつつあり、日本語を選択科目として教え始める大学や機関も増えてきている。
 2008年12月に教育省が外国語教育プログラム「Special Program in Foreign Language」の導入を発表し、2009年6月より選択外国語科目としてスペイン語、フランス語、日本語の3言語の教育を各言語の実験校で開始した。それに伴い、一部の私立高校のみで行われていた中等教育機関における日本語教育が公立高校にも取り入れられることとなり、このプログラムの拡大が中等教育レベルの機関数、教師数、学習者数の増加につながっている(詳細は教育段階別の状況【中等教育】の項参照)。

https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/philippines.html

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