日本語教師体験談(中国吉林省長春市)

<中国映画は好きだったけれど…?>

私が初めて日本語教師になったのは、まったくの偶然?からでした。それまでのわたしは中国の映画が好きで、特にウォンカーウァイ(王家卫)監督の「恋する惑星」中国名重慶森林”をはじめ、映画の中で見る中国、香港の湿気と熱気を含んだような街の雑多さ、人情味にあふれる人たちに惹かれていました。

撮影に使用された

香港重慶ビル

それからNHKの中国に関するドキュメンタリー番組も大好きでした。養蜂農家の苦労を追う番組や、地方から出てきた少女が北京でスターを目指して奮闘する話、はたまた中国で日本のチェーンレストランの開業で苦戦する現地の社員の話などなど、どんなものでも興味深く、中国に関係するものならどんなドキュメンタリー番組でも旅番組でも好んで見ていました。

そんなわたしが2009年の年明けとともに、何か新しいことを始めようと中国語の勉強を思い立って、スタートさせたのでした。当時は、中国語をマスターして将来は中国を旅行してみたいとか、まして中国で仕事をしてみたいなどとは、これっぽっちも考えていませんでした。まして自分が数年後中国で日本語教師をすることになろうなどとは…。

 好吃

        はおち~

<中国語の勉強がきっかけでオファーが!?>

 中国語の勉強の本を買って独学で勉強を始めて一年経つ頃、青森市内の青森県日中友好協会が主催する中国語教室にも通い始めました。そこで中国人の先生(青森市内大学に通う中国人留学生)と出会いました。先生として知り合ったものの今では彼女は私の10年来の良き友人です。

それからもう一つかけもちで別の中国語教室にも通ったりと、当時の私は中国語の勉強が面白くて仕方がなく、英語を早々に挫折した苦い思い出とは裏腹にあまりにもスルスルと中国語をマスターしていく事ができて爽快でした。

今思えばこれも中国で日本語教師をする運命の道へと進んでいたのでしょう。そのもう一つの中国語教室で出会った、中国人の先生は市内の大学で教授もしており、とても熱心に中国語を学ぶ私をよく可愛がってくれていました。

 我要学中文

そしてある日、その教授が中国の大学に戻ることになった、一緒に働いてくれる日本語教師を探している、私にチャレンジしてみないかというお話をくださったのです。その頃30代前半だった私は中国へ語学留学してみたいものの、地元での仕事を辞めてこの歳で中国に留学なんていかがなものだろう…と躊躇していたので、そのお話をいただいた時、中国で仕事もできて(収入も得られる)、大好きな中国語も学べる!?それなら行くしかない!と二つ返事で承諾したのでした。

よく日本語教育について何も知識のない人は、日本人なんだから日本語ぐらい教えらえるだろうと、甘い考えを持ちがちです。しかしいくら話せるからといって自分の母語をまったく日本語を知らない外国人に一から教える、というのはとんでもなく大変な専門的技術を要することだったのです。

なーんにも知らない当時の私はのんきにただこれから中国で仕事、生活することを想像してはワクワクしていたのでした。

<体当たり!何も知らない日本語教師!>

吉林省長春市にある大学が私の初めての日本語教師デビューの場でした。今考えると本当に何も知らないとは恐ろしい事だと思いますが、なんと授業を始めるまで「辞書形」「ます形」「動詞の変化」??これら日本語を教える上で絶対に知らなくてはならない基本中の基本ですらなんにも知らずに「みなさん、はじめまして!!今日から一緒に日本語を勉強しましょう!!」とイキオイのみで、教壇に立っていたのです。

初めて一週間…、どんどん自分がいかに何も知らないか、日本語を教える上での知識と技術、膨大な準備が必要だったということを思い知ることになりました。授業の前にまず自分が先に何を勉強してどう学生に説明し、教えるか。しなければならないことは山積みでした。

そして当時は直接法で教えていたので、教科書の毎課毎課の単語をどうやって日本語のみで説明して、学生にわかってもらうか、名詞はともかく動詞や副詞など、どうやったら説明できるのか、ひとつひとつ調べたり考えたりして授業の準備をしました。

週末はほぼそれにかかりきり。普段も毎日夜遅くまで授業準備に追われました。調べれば調べるほど、まだまだ準備しなければならない事が膨大にあることがわかり、自分がいかに無知でのんきにこの業界に飛び込んでしまったか愕然としたものでした。

気分転換の散歩。長春街歩き

 しかし、今振り返ってみても、当時も大変さより、楽しさが勝っていたと思います。普段無意識に話している日本語がどのような構造で、どのように成り立っており、外国人はこんな風に日本語を学んでいく、という日本語の「仕組み」がわかるにつれてなんとも言えない喜びを感じました。 

中国人をはじめ、外国人学習者が苦戦する日本語の助詞、敬語等、母語なので自分は無意識にこなし話すことができるが、まったくわからない外国人にどうやって、助詞の「が」と「は」の違いを教えるか、

一つの動詞をとってみても、「辞書形」「ます形」「て形」「ない形」など変化があること、またその変化のルールはどうなっているのか、

形容詞にも「い形容詞」「な形容詞」がある、加えて「おいしい→おいしかった」など形容詞にも過去形がありそれはどのように変化するか、

などなど、毎日毎日調べて調べて本を読みあさり、インターネットで検索してはメモをとり、授業の準備をする、の繰り返しでした。

自分の無意識に自在に操れる母語「日本語」が、いざ学習するとなるととても複雑で難しい言語なのだということがわかりました。でもその一つ一つが調べる過程で面白くて仕方なく、またそれ以上に、それを日本語で説明して学生が理解でき、それを使って学生が話せるようになっているのを目にしたとき、この上ない喜びを感じたものです。

今思えば、その当時から日本語教師の魅力に魅せられていたのかもしれません。

教職員の旅行で

川下り

<学生との出会い>

日本語教育以外にも私は日本語を勉強する一クラスの担任のような役目を任せられていました。先生業に憧れを抱いて先生になる人もいると思いますが、わたしの場合偶然と舞い込んだチャンスによって、突然30数人の「先生」になったのです。

30人あまりの大学生が先生!先生!と朝から晩まで慕って付きまとい、大好きな日本文化についての質問攻めにあったり、ある時はこっそり恋愛相談をされたりと、とにかくなんの心構えもなかったわたしを「先生」と慕ってくれる学生たちに囲まれる毎日、これが嬉しくないわけがありません。

学生たちと

教室で記念撮影

すぐにこんなにかわいい学生たちの良き先生になりたい、力になりたい!上手に日本語を教え、かれらの日本語能力をアップさせてあげたい!と強く思うようになりました。中国の学生はどちらかといえば日本より幼くてで素朴。中国の高校生が日本の中学生、中国の大学生が日本の高校生のような雰囲気です。

それなので、受け持った大学生も毎日男女かまわず群れになってキャッキャとはしゃいで、元気に走り回っているような子たちでした。日本人の先生に対する興味もそれはそれは激しく、暇さえあればわたしをつかまえて必死に日本語でおしゃべりしようと頑張ります。

休日もおいしい中国料理の店に連れていってくれたり、ハイキングやカラオケ、ショッピングなどなど、日本からはるばる来た先生を楽しませようと、あれやこれやと誘ってくれるのでした。海外生活で寂しい思いをすることなんて一瞬もありませんでした。

学生たちと旅行

この日本語を学びたい学生たちにとってわたしという存在がこんなに歓迎され、日本人教師としてできることがある、力になれることがある。この子たちの日本語を学びたい!日本が大好き!というパワーにこちらも全力でこたえなければ、と実感したものでした。

この子たちにわたしが真剣に全力で日本語、日本文化を教えることでこの子たちの将来が変わるかもしれない、この子たちの将来、大げさに言えば一人一人の人生に教師として関われるのかもしれないと感じました。教師という職業がこんなにも喜びに満ちて素晴らしい体験なのか、それを実感しつつ奮闘する毎日が過ぎてきました。

学生から中国麻雀を習う

<帰国して>

そんな目まぐるしく刺激的で感動的で毎日がドキドキワクワクの連続の日々はあっという間に過ぎ、私の半年間の契約は終了しました。あまりにも毎日が楽しくそして忙しく、本当に時間が過ぎるのが早かったです。

興奮冷めやらぬまま帰国した私はもうすっかり日本語教師の魅力にとりつかれ、中国で仕事する楽しさに魅了され、また地元で働きつつも通信の日本語教師講座を申し込み、基礎からしっかりと学びながら、次のチャンスをずっと探す毎日でした。

日本語教師は一度なったら、その苦労の分以上に他の何にもかえがたい強烈なやりがいと充実感、喜びがあります。様々な人が様々なきっかけで日本語教師の道へ足を踏み入れると思いますが、ほとんどの人がその楽しさに魅了され、場所や勤務先の学校が変わってもずっと海外で日本語教師を続ける人が多いのです。

<日本語教師になりたいワケ>

以上、わたしが偶然と運命に導かれ、日本語教師になったいきさつと体験談でした。

日本語教師になるきっかけは本当にひとそれぞれ。私がこれまで中国で出会ったほとんどの日本語教師仲間がまったくの違う畑から日本語教師になった人ばかりです。

学生時代から日本語教師になることを夢見て大学でも専門に学び、そして卒業後海外に渡る、このような王道のルートの知り合いは本当に少ないです。

みんななんらかの社会人経験を積んだ後、またはまったく違う専門分野でひとしきりやり終えたところで、人生を考えなおしたり、何より海外、異文化が大好きで、一度は日本を飛び出して異国の地で仕事をしてみたいと思う人が、ある日何等かのきっかけで、日本語教師の道へ踏み出すのです。

実は海外生活自体が夢なので、日本語教師をすることはその「手段」にすぎない、という人も実はけっこういます。「海外で生活したいから、その国が好きだから」だから日本語教師をして収入を得る、これだって全然いいのです。

日本語教育一筋に猛勉強をしてきた人が意外にもいざ海外に来てみて食生活や風土、習慣に慣れず、体調や精神面でくじけて泣く泣く帰国する、、なんて例もあるのです。

なので、あまり堅苦しく考えず、やってみようかな?私に向いているかも?教壇に立ってみたい!学生から先生と呼ばれてみたい!大好きな日本の漫画アニメ文化を紹介したい!などなど、ひとそれぞれ日本語教師を目指すきっかけは本当にどんなものでもいいのです。

なにも日本とその国との友好の架け橋の一端を担いたい!将来グローバルに活躍する人材を育てたい!などと大それたことではなくてもよいのです。かく言うわたしも、完全に前者で、中国が大好き!中国語を勉強したい!から始まりました。それが今では日本語教師は生涯続けていきたい、私の天職だと思うようになりました。

<日本語教師の「ダシ」!?>

 以上様々な違う分野でこれまで勤めてきた人がある日思い立って日本語教師になる例が多い、、とお話しましたが、わたしはこのどんな分野からでも、どんな年代からでも日本語教師なれる!それこそが日本語教師という職業の魅力だと思っています。

例えばこれまでOLをしてきた女性、営業マンをしてきた男性、美術を専門にやってきた人、前職は看護婦だった人、デザイナーだった人、農家だった人、本当にどんな経歴を持っていても、それはその先生の魅力になり武器になります!もしかすると日本語教師一筋何十年という先生になしえないことができる事だってありうるのです。

その人がそれまで一生懸命歩んできた道がすべて「いかされて」あなたにしかできない、唯一無二の日本語教師になれるのです。日本語を教える知識や技術コツは学ぶことができます。必死にやれば必ずいつかベテラン日本語教師に追いつくことが可能です。

でも、「それ以外」の経歴の個性は、ぜったい他の先生にはないあなた独自の魅力です。わたしはそれをお味噌汁の「ダシ」のようだといつも思っていました。何からダシをとって、どんな具を煮込むのか、入れる具材が違えばできあがった味噌汁の味も違います。あなたにしかだせない「ダシ」で勝負することができる、それが日本語教師です。

<おわりに>

 長らくここまでお読みいただきましてありがとうございました。いかがでしたうか?「偶然」から日本語教師の道に足を踏み入れ、2020年の今、日本語教師として気づけば10年経とうとしています。

日本語教師になることが運命だったのだと今でこそ思います。大好きな仕事ができるということは何より幸せなことだと思います。日本語教師は人対人の仕事、全力でぶつからなければなりません。苦労ももちろんあります。

挫折を味わうこともあるでしょう。でもその何倍も喜びと感動があります。いままで自分が経験してきたすべてが活かせる、もち味になる、日本語教師。あなたもチャレンジしてみませんか。

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