定年後の日本語教師初体験(中国吉林省長春市)

日本語教師になるきっかけ

 1990年代後半、勤めていた短大でいろいろな改革を進めていました。そのなかで教養科目のカリキュラムとして、中国語と韓国(朝鮮)語を加えることにしました。東アジアとくに隣国との関係は重要だと思ったからです。そのとき中国語の講師として招いた先生が仲立ちとなって中国長春市にある大学と姉妹校になりました。

 交流が深まり、何年か後、その先生が姉妹校大学の日本語学院(学部)長として赴任しました。日本語のネイティブを配置する苦労話を聞いていたら、私にも誘いが向けられました。私は専門が哲学や思想で、日本語教育については素人です。少し躊躇しましたが、毎年訪れていた中国で生活してみたいという想いもあり、養成講座で勉強して2011年2月赴任しました。(まもなく、日本の大震災を院長から知らされ院長室でテレビを見ました。董事長(理事長)はじめ皆さんからご援助をいただき感動しました。)

学校、生活など

 勤務先はさまざまな分野の学院を擁する大学で、長春の郊外にあります。周辺には教育、警察、薬学、農業などの大学があり、一帯はそのために開発された大学都市といえます。

 大学敷地内に学生と外国人教員のために寮、食堂、売店があり、生活の不自由はないのですが、息抜きのために隣接する「后街」に毎日のように出ました。赤い顔で帰るわけにいかないので、日本料理の場合「松竹梅」1合です。たまに、タクシーで長春中心街に出ます。この時は中国語に苦労します。よく使う中国語を書いたカードをポケットに忍ばせていました。面倒な買い物などは、学生が通訳を買って出てくれます。

日用品を買いに「后街」へ

仕事内容、学生の特徴など

 普段は日本語専攻の先生や学生相手なので、学内では中国語を使うことなく過ごしました。学生は真剣に勉強し、日本語を使う機会を求めています。(そうでもない学生がいて、授業に興味を示さないのですが、珍しい。)

 日本では、普通の先生は始業チャイムが鳴ってからおもむろに研究室から出かけますが、中国では教室の教壇でチャイムを聴き授業開始です。最初のころ、チャイムが鳴る前に研究室に学生が来て「先生。授業が始まりますよ。」と促されて、???と思いました。毎回欠かさず迎えに来て、カセットデッキや教材などを持ってくれます。

 中国の学生にとって熱意が感じられない先生は最悪です。この点、日本の教員は自分の内心は違っても、印象で誤解されることがないように注意を要します。学生は勉強のハングリー精神が強いので、それだけ先生に対する要求が強く日本の比ではありません。

日本語教師の同僚と一緒に

日本語教師を目指すみんなへ

 日本語教育初心者の私は、前半に何度か注文を付けられました。聞いてみると、他の先生たちも多少は経験して乗り越えてきていました。これも日本ではあまりないことなのでショックを受けるかもしれませんが、それほど特別なことではないようです。落ち着いて受けとめて誠実に努力を続けることが肝心と思います。努力は確実に伝わります。

 私の場合、定年を終えてからの日本語教師初体験。意識すること少なく生まれ育った母国語。それを教えることを通して気づく、異なった文化と人間の通じ合い。ほかの方法では得られることのなかった人生の彩りになっています。 

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